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徒歩でカンボジアを歩き切った男が最後に流した涙のワケ

これまで数々のネタ的爆笑体験を披露してくださった、ユーラシアを歩いて旅する男・平田さん。ところが今回は…、カンボジアのとある街の警察署長さんの男気に思わず涙のあるきすと。まさかの感動巨編をどうぞ。

あるきすと平田とは……

ユーラシア大陸を徒歩で旅しようと、1991年ポルトガルのロカ岬を出発。おもに海沿いの国道を歩き、路銀が尽きると帰国してひと稼ぎし、また現地へ戻る生活を約20年間つづけている、その方面では非常に有名な人だったりします。普通の人は何のために……と思うかもしれませんが、そのツッコミはナシの方向で……。

第7回 アンドウン・テークの警察署長に会いたいinカンボジア

『あるきすと平田のそれでも終わらない徒歩旅行~地球歩きっぱなし20年~』第7号より一部抜粋

カンボジア。みなさんはカンボジアと聞くとなにを連想されますか?

たぶん圧倒的にアンコール・ワットだろうとおもいます。それ以外といえばポルポト派、内戦、トゥールスレーン、蓋骨の山、地雷などなど、負の面の言葉が多いのではないでしょうか。最近では隣国タイとの国境紛争だし。

実際、世界遺産のアンコールワットに代表される遺跡群以外に、あそこへ行きたい、あの料理を食べたい、あれを買いたい、そんなカンボジア関連アイテムが思い浮かばないのが一般的だろうとおもいます。

数百万個といわれる未処理の地雷、隣国タイとの国境紛争((※ 2011年当時)、政治的混乱などなど、いまだ内戦の残滓に苛まれるカンボジア。しかし2005年1月から2月にかけて西隣のタイ国境から東隣のベトナム国境までの679キロを徒歩で横断したときの印象はひじょうによかった。これまでに歩いてきた約20カ国の中で、子どもたちからもっとも頻繁に明るい表情で「ハローハロー」と声をかけられたのはカンボジアでした。カンボジアには明るい未来が待っている気がしています。

カンボジアの子どもたち。「ハローハロー」と人懐っこいぞ。94年、ココン近郊で。

僕が最初にカンボジアを徒歩旅行しようと考えたのは、1997年6月のこと。西隣のタイをほぼ歩き終えてカンボジア国境に近いトラートに到着したのがその年の6月24日、トラートからカンボジア国境までは百キロ弱を残していた。僕の歩くペースなら3日、遅くても4日の距離だし、できるならそのまま継続してカンボジアも歩きたい。

しかし残念なことに、当時の治安状況がそれを許さなかった。カンボジアでは長年にわたる内戦がまだ完全に終結しておらず、とくに恐怖政治を布いたポルポト派の残党がタイ国境にほど近いジャングルの中で細々と余命を保ち、ベトナムが後押しする中央政府や国連カンボジア暫定統治機構(通称アンタック)に対して慢性的なテロ攻撃を企てていたうえ、ときには国境を越えてタイ領内に侵入して地元住民とのトラブルが絶えない状況がつづいていたからだ。

そして僕が歩いて到達したトラートからカンボジア国境までの約百キロの道路の西側は海に近いものの、東側は山がちでそのままカンボジア領へとつながっていたため治安が確保されず、徒歩での旅行はやめたほうがいいと地元住民から諭されて断念したのだった。

もちろんカンボジア自体、内陸のシェムリアップ近郊のアンコール遺跡群など一部の観光地を除けば、外国人がのこのこ歩いて旅行ができる状態ではなかった。タイの首都バンコクにある安宿街のカオサンロードには世界じゅうからバックパッカーがつどっていて、アンコールワットをめざす旅行者も多かった。しかしカンボジアから戻ってきた彼らの話を聞くと、アンコールワットのような観光地でさえナイフをちらつかせて金品を巻き上げられる事件が発生したり、外国人観光客を乗せてシェムリアップと首都プノンペンを結ぶトンレサップ湖のボートがポルポト派やカンボジア国軍兵士に襲われ、ピストルや自動小銃を突きつけられて身ぐるみ剥がれるという強盗事件も頻発していたほどだ。

というわけで、当時、カンボジアを歩くなんて命を捨てるようなものだからいったん棚上げにして、いつの日か治安が回復すれば捲土重来を期そうと誓ったのだった。

それから数年、ベトナムのホーチミン市でボケーッと月日をやり過ごし、頭の中にクモの巣がはりめぐらされて思考停止になる直前の2005年、カンボジアの治安は数年前と比べものにならないくらいに好転したというニュースを旅行者などから教えられ、ようやく一念発起してカンボジアの徒歩旅行に挑戦することにした。

>>次ページ カンボジア軍にまさかの拉致?

カンボジア横断のもっともポピュラーなコースは、タイのアランヤプラテートから東進、内陸で国境をまたいでポイペトからシソポン、その後はシェムリアップ、コンポンチャムを経由する国道6号線か、シソポンからコンポンチナン経由の国道5号線で首都プノンペンに至り、そこからベトナム国境まで国道1号線を通るルートだ。そしてその年、実際に国道6号線を歩いて横断した日本人旅行者の話が、バンコクのとある日本人宿の旅ノートに掲載されていた。

しかし僕はこれまでもできるだけ海に近い国道を歩いてきたので、カンボジアでも自分なりのこだわりを貫きたい。そんな理由から、ポピュラーな内陸ルートではなく、安全面でちょっと不安はあるけど徒歩が不可能ではないとおもわれる海に近い国道48号線を選んだ。

この格好で歩く。国道48号線で。2005年1月。

まず97年当時にタイ領内で歩き残していたトラートからカンボジア国境までの約百キロを歩き終え、念願のカンボジアに徒歩で入国したのは2005年1月14日。ココンという人口3万人の川沿いの町を発つと、国道48号線は海にもっとも近い国道とはいいながらほとんど山の中を通る未舗装の道路だった。どこの国でも国道ぐらいはアスファルト舗装されていたものだが、やはりカンボジアはただものではない。それも赤土を盛って平坦に均して道路を造成したのはカンボジア政府やアンタックではなく、隣国タイ国軍の工兵隊だ。ギクシャクしていた二国間関係を好転させようと、当時のタイ政府が手を差し伸べたものだった。

なだらかな起伏の丘陵地帯を走る国道48号線は車の往来がまばらで、道沿いにはみすぼらしい木造の高床式住居が点在するものの、行けども行けども町がない。ところどころ山火事に見舞われた痛々しい山肌が広がる。それでもときどき山の中を水量豊かな大河が流れ、国道の切れる川岸にはかならず小型フェリーが待機していた。車の往来が少ないといっても30分も待てば小型フェリーは長距離専用タクシーやトラックで満車状態になり、対岸へと渡ることができた。

国道48号線。前方の山肌は山火事のせいで黒ずんでいる。

しかし、町がないので宿もない。そのため歩き終えた地点から宿のあるココンまでなにか乗り物に乗って戻ってこなければならないのだが、これがひと苦労だった。未舗装ながら国道なんだし、バスや乗り合いタクシーぐらい走っているだろうとタカをくくっていたら、そんな交通機関はかなり早い時間帯で終了してしまうしヒッチハイクもままならないし、とにかく帰りの車にありつけない。初日はまだ明るいうちにバイクタクシーをゲットできてラッキーだったが、2日めはどうしても車がつかまらず、とっぷりと日が暮れたあとに偶然やってきたパトロール中のカンボジア軍のピックアップトラックの荷台に乗せてもらってココンに帰ってきた。荷台には僕と数十個の土のうのほかは、ふたりの兵士が片膝立ちで自動小銃を構えた格好で乗り、じっと闇夜の山中のジャングルを睨みつけていた。なにか潜んでいるのだろうか。

それより僕には懸念することがあった。前述したとおり、僕が歩いた2005年のせいぜい5、6年前に、カンボジア国軍兵士が旅行者を銃で脅して金品を強奪する事件が多発していたので、本当いうとこのときもそうならないかという一抹の不安があったのだ。金を盗られるだけならまだしも、真っ暗な山中でズドンと一発やられ、身ぐるみ剥がれてジャングル奥深くに遺体を捨てられてしまえばまずバレっこない。荷台には僕の両サイドに自動小銃を構えた兵士がふたりいるわけだから、その気になればお茶の子さいさいだろう。

そして車に乗ってから2時間以上が経過、ようやく遠方にココンの明かりが弱々しく見えたころ、僕の心臓が早鐘を打ちだした。なんとピックアップトラックがココンへ通じる国道をはずれて枝道深く入り込んだのだ。

>>次ページ カンボジア軍兵士の意外な行動

「ヤバイヤバイヤバイヤバイ。ヤラレルヤラレルヤラレルヤラレル」

思わず呪文のように「ヤバイ」と「ヤラレル」が数珠つなぎに口から飛び出す。トラックの荷台から飛び降りて闇夜のジャングルに駆け込むべきか瞬時ためらい、結局やめた。荷台のふたり以外にも運転手と助手席の男も兵士だ。このトラックにはピストルや自動小銃を身につけた兵士が4人も乗っている。ジャングルに駆け込んだところで逃げ切れるはずがない

僕は半ばあきらめの境地で彼らの行動を見守った。トラックがだいぶ枝道を走ったころ、暗闇の中にヘッドライトに照らされて数棟の粗末な小屋が浮かぶ。そのひとつから男が出てきて助手席の男と言葉を交わすと、荷台の兵士ふたりは土のうを投げ下ろし始めた。

暗くてはっきりしないが、どうやらここは小ぢんまりとした集落か屯田村のようだ。

ふたりが荷台の土のうをすべて投げ下ろすと、トラックはエンジンをかけた。先ほどの国道48号線まで引き返し、今度ははるか彼方に見えるココンの町の明かりをめざして夜道を走り抜けた。国道に出てもしばらく動悸が収まらなかったが、なだらかな坂を下って町のはずれにたどり着いたころ、ようやく人心地をつくことができた。なおありがたいことにカンボジア国軍のピックアップトラックはわざわざ僕の泊まっている安宿のある路地まで進入し、僕を降ろしてくれた。

カンボジア軍のピックアップトラック。これで60キロも離れたココンまで送ってもらった。

いやー、ほんと怖かったですよ。バックパッカーのあいだでは、ひと昔前のカンボジア軍兵士の風紀の乱れ具合があまりにも悪名を馳せていたせいで、生まれ変わったであろう新生カンボジア軍の兵士にまで僕は知らず知らずのうちに疑念の目を向けていたのだった。宿でシャワーを浴びながら直前の体験を思い返してみると、ほとんど僕は保護されたも同然だったことに思い当たった。どうもお世話になりました、カンボジア軍。

しかし学習能力のない僕はその2日後、今度はカンボジア警察に保護される。あーあ。

カンボジア軍のピックアップトラックで宿まで送り届けてもらった翌日は、ココンの町を徘徊して過ごした。この日の大事な要件は、カンボジアの携帯電話のSIMカードとプリペイドカードを購入することだった。そしてこれがさっそく活躍することになるのだが。

僕の選んだ国道48号線はその後もしばらく山中を走っており、場合によるとまたしても軍用車にお世話になるかもしれない。歩きをやめればいいんだろうが、意地もある。97年に歩けず、05年になってようやく実現したカンボジア徒歩旅行だ。とにかく山の中を抜ければ町もあるので、あと数日がんばってみようと心に決めた。しかし途中なにがおこるかわからない。いざというときは警察や首都プノンペンにある日本大使館などに素早く連絡しないと。

というわけで、ベトナムで買ったソニー・エリクソンにカンボジアで買ったSIMカードを挿入して実際に利用できることを確かめ、翌朝ワゴン車の乗り合いタクシーに乗り込んだ。山中に宿があるともおもえない。この日も歩き終えるとココンまでタクシーかなにかで戻ってくる予定にしていた。

赤土の路面には砂利がゴロゴロしていて歩きにくい。国道48号線で。

2日前に歩き終えているトラペン・ルンという渡し場までワゴン車で移動し、そこから歩くこと20キロ、オアンダットというたった数軒の集落に到着。そろそろ帰りの車をつかまえないとまずいかなと時刻が気になったころ、前方から警官ふたりが乗ったバイクが走ってきて僕の前で停車した。ハンドルを握るのは小柄だが体格のガッチリした40歳前後の男で、腰に拳銃を差している。後部座席の男は自動小銃を肩からさげた20代後半のひょろ長い男だった。

カンボジアはクメール語である。自慢じゃないがこっちは「こんにちは」と「さよなら」しかわからない。

「ジョムリアップ・スア(こんにちは)」

「○?□△※」

当然わからん。こういうときはこちらからパスポートを提示することにしている。とりあえずパスポートを見てもらえば、僕が日本人で、ちゃんと必要なビザも取得していることは理解してもらえるので、無用なトラブルを避けるうえでも大切なことだ。

>>次ページ 署長に密猟者に間違われる

パスポートに目を通した小柄の男は、今度は流暢なタイ語と貧弱な英語で話しかけてきた。カンボジア西部には隣国タイの言葉を話す人がかなりいると聞いていたから、これは不思議なことではない。僕はカンボジアに入る数年前にタイを歩き終えていたおかげで、ほんの少しだけタイ語がわかった。

おまわりさんは、こんなところでなにをしていると尋ねていた。もっともな質問だとおもう。外国人旅行者ならこの国道を長距離タクシーで通過するため、ふらふら歩いている僕を怪訝に感じたのだろう。

おバカな歩き旅をタイ語と英語のちゃんぽんでしどろもどろに説明したものの、結局このバイクに乗るよう指示された。僕はふたりの警官に前後を挟まれた窮屈な格好、つまり3ケツ状態で、そこから25キロほど離れたアンドウン・テークという山中の町の警察署まで連行され、改めて尋問を受けることになった。

アンドウン・テーク警察署。数年前に建物の後ろ半分がポルポト派に爆破された。

バイクのハンドルを握っていた小柄な男は、この警察署の署長だったんだと、あとでわかった。尋問に先立ち、署長は警察署の向かいでゲストハウスを営む若い男を連れてきた。こんなところにゲストハウスがあることにまず驚いたが、彼が英語を話せることにも驚いた。署長は彼を通訳として使おうという魂胆である。

しかしカンボジアの法律を犯したわけでもない僕が、なぜ連行されて尋問されなければならないのか、そこがよくわからない。イランで国境警備隊に連行されたときと同類の不満があり、内心ムッとしていた。しかしイランではそんな不満から反抗的な態度をとったことが災いして、結局ブタ箱にぶち込まれた苦い経験があったから、今回は平身低頭に構えた。自分に非があるとおもわないが、たしかに外国人旅行者がめったに行かないところを歩いていたわけだから、なにかを疑ったのかもしれない。しかし僕をなにかの容疑者だと決めてかかっているようにも見えなった。

ゲストハウスの経営者を通訳にして署長は1時間ほど僕を質問攻めにした。すべてに的確に答えたつもりだったので、そのうち自由にしてくれるだろうと楽観視していたら、案に相違してパスポートを取り上げられてしまった。

通訳の男は、

「今夜は警察がパスポートを預かります。夜はわたしが経営するゲストハウスに、自腹で泊まりなさいと、署長はいっています」

というわけで、イランのようにブタ箱泊まりではないが、一夜、身柄を拘束されることとなった。

どういう容疑なんだと通訳に尋ねても、自分にもわからないという。そういう説明がなかったそうだ。ただし過去にも似たケースがあったそうで、そのときは密猟を疑っていたらしい。

はあ?密猟?うーん、予想もしなかった。留め置かれた停電中のゲストハウスの室内で、ろうそくの明かりの下で地図を広げてみると、なるほど僕の歩いてきた国道48号線の海側一帯はペーム・クラソップ自然保護区と記されていた。そういや歩いている道すがら、ジャングルの中から聞いたこともない鳥の鳴き声が漏れ聞こえていた。なにか大型獣が潜んでいても違和感のない雰囲気もあった。もしかするとあのジャングルの中には貴重な鳥獣が生息していて、それを商売目的に密猟するヤカラがいるのかもしれない。

かりに容疑が密猟なら、僕はまったく心当たりがないので恐れることはない。

またカンボジアを旅行する外国人バックパッカーにありがちな例として、マリファナやアヘンなど麻薬関連が疑われるが、これに対しても潔白なので心配ない。

警察も、もし僕を根っから疑っているならばゲストハウスではなくブタ箱に留置するだろうし、その夜は署長や宿直の警官、署内の雑務をこなす近所の家族と一緒の食事にも招かれ、記念撮影もしたくらいだから、なにか重要な犯罪に関与している容疑者として僕をみなしていたとはおもえない。イランでのケースと違い、あまり深刻に考えないほうがいいだろうと判断した。

それでも翌日には約百キロ離れたココンへ署員を派遣して、僕が宿の部屋に残しておいた荷物を徹底的に調べ上げていたから、尋問だけでなく、なにかの悪事の証拠を探しだそうとしていたようだ。

署長と賄い婦と一緒にディナーをご馳走になる。メインディッシュは川魚の干物。

結末からいうと、翌日、無罪放免。それだけでなく、この署長さんは僕の旅のよき理解者となってくれたのが心強かった。というのも、無罪放免後に本人からうかがったところでは、カンボジアの国道48号線を徒歩で旅行するなどという人間は前代未聞で、いくらカンボジアの治安が飛躍的に向上したとはいえ、まだ国内には銃器が蔓延しているし、内戦の置き土産である地雷の撤去が未完の地域もある。実は署内の警察官全員でアホな日本人をこの先歩かせていいものかどうか議論したそうだ。そして多くの署員は、危険過ぎるという理由で反対だったという。

>>次ページ 旅の最後に流した涙のワケ

ところが、署長いわく、

「カンボジアはまだまだ貧しい国で、治安もよくなったといっても日本や欧米とは比べものにならない。銃と地雷がいっぱいあるんだ。だからユタカがカンボジアを歩くのは、ほかの国より危ないんだよ。でも、ユタカの話を聞いていてオレはおもった。オレたちの国を歩いてほしいと。だから多くの部下が反対したけど、オレはユタカを歩かせようとおもう。

その代わりひとつ条件がある。ユタカ、ケータイ持ってるよな。よし。これから毎日かならず、歩き終えたところからオレのケータイに連絡してこい。今日はどこからどこまで何キロ歩いたと知らせてこい。もし一日でもユタカから連絡がなければ、オレはカンボジアじゅうの警察を動かしてユタカを探しだすぞ。

署長の言葉を聞くうちに目頭が熱くなり、ついに我慢できずに男泣きしてしまった。バカな外国人旅行者を、それもなにかの嫌疑で疑った人間を、ここまで応援してくれるとは。とにかく無事にカンボジアを歩いて出国しなければならない。途中で地雷なんか踏んで木っ端微塵になっているヒマはない。拳銃強盗にズドンとやられて頭から鮮血をほとばしらせている余裕もない。とにかく安全第一に一歩一歩、歩かなければならない。ちゃんと無事にカンボジアを出国して初めて、僕は署長の好意に報いられるのだ。

その後、道端での立ちションや野グソは、家畜のひづめの跡がついたところでやるようになった。少なくとも、ひずめの跡があるところに地雷は埋まっていない。

夜中に拳銃強盗が頻発していた首都プノンペンでは夜間の外出を控えるなど、署長の言葉をかみしめ、それまで不注意におこなってきたことを改めた。

よろずやさんのハンモックでひと休み。

おかげさまで僕はその後に大きなトラブルに遭遇することもなく、したがってカンボジアじゅうの警察が僕の所在を確認するために動くこともなく、無事にカンボジア国内679キロを歩ききって隣国ベトナムとの国境にたどり着くことができた。もちろん最後の日も、国境検問所のすぐそばからアンドウン・テークの警察署長へ電話を入れた。

「ユタカです。今、(ベトナム国境の)バベットに着きました。あなたの国を無事に679キロ歩きました。みんな、優しくしてくれました。本当にありがとうございました」

「あー、ユタカ。無事に着いたか!おめでとう、おめでとう。よく歩いたね。オレも自分の国の治安に少し自信が持てたよ。ほら、覚えているか、『ユタカは絶対に途中で死ぬ!』って言ったオレの部下を。今、オレの横でびっくりしてるよ。よかったよかった。また遊びにこいよ!」

物質的な貧しさと心の豊かさがかならずしも反比例しない好例を、僕はカンボジアで知った。いつかまた、あの心豊かな署長に会えるだろうか。

ベトナムに入ると、ソニー・エリクソンからカンボジアのSIMカードを抜き取り、代わりにベトナムのSIMカードを挿入する。当然のことだが、直前まで毎日かけていた署長のケータイの番号にかけてみると、ベトナム語と英語で、番号をお確かめくださいというメッセージが流れた。国境をまたいだ瞬間、約40日間滞在した心優しき国カンボジアが目の前からフワーッとかき消えたような気がした。

アンドウン・テークの警察署長と。お世話になりました。合掌。

 

『あるきすと平田のそれでも終わらない徒歩旅行~地球歩きっぱなし20年~』第7号より一部抜粋

著者/平田裕
富山県生まれ。横浜市立大学卒後、中国専門商社マン、週刊誌記者を経て、ユーラシア大陸を徒歩で旅しようと、1991年ポルトガルのロカ岬を出発、現在一時帰国中。メルマガでは道中でのあり得ないような体験談、近況を綴ったコラムで毎回読者の爆笑を誘っている。
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