「古典」と聞くと、学生時代に苦労した経験ばかりが思い出されてしまうという方が多いかもしれません。今回の無料メルマガ『1日1粒!「幸せのタネ」』では著者で大学時代に平安時代の日本文学を学んだという須田將昭さんが、「古典も元々は新作だった」とした上で、そんな古典を気軽に楽しむ方法を記してくださっています。
古典もかつては新作だった
今はすっかり『易経』など中国古典にはまっていますが、もともと大学で学んだのは日本文学でした。特に平安時代の女流日記文学でした。
平安時代の文学といえば、世界に誇る『源氏物語』があります。今の私たちが原文を読もうとすると、さすがに1,000年の壁は相当に厚く、簡単には読めません。今とは文法も語彙もかなり違うからですが、当時の読者にとっては「現代語」です。さぞ夢中になって楽しく読んだことでしょう。
そう、今では古典と言われる文学作品も、かつては「新作」だったのです。『徒然草』も、今なら教養人のブログっぽい位置づけになると考えて読むと面白いかもしれません。
知り合いに八幡神社に参拝したやつがいるんだけど、ふもとの社で満足して帰ってきたのがいるんです。本当は上に本社があるのにね。知らないってのは罪だねぇ。
なんてことが「つれづれに」書いてあるわけです。そう思って気楽に読んでみると、面白いことが色々見つかるかもしれません。ただ、残念ながら、『徒然草』は執筆当時はほとんど注目されず、ずいぶん後になってから評価が高くなった作品ではありますが…。リアルタイムに多くの人に親しまれるようになった…、となると、江戸時代以降になるでしょう。
時代がぐっと近くなって、明治・大正時代あたりになると新聞・雑誌が発達します。これは大きいですね。例えば、今でこそ「文豪」と呼ばれる夏目漱石も新聞連載小説を書いていたのです。『三四郎』や『こころ』などが毎朝、新聞で読まれていた、というのもなんだか不思議な感じがします。リアルタイムで読んでいる人たちと、今の私たちとでは受け取るものがかなり違うものがあるはずです。
時を超えてもなお、多くのものを読者に訴える何かがあるもの。それが「新作」を超えて「古典」の仲間入りができるわけです。今の「新作」を読むつもりで「古典」を読んでみると、「新作」を読んだ時の楽しみ方も変わるかと思います。「これ、50年後に読んだらどうかなあ」と思ってみると…。
さて、「古典」は何も高尚なものだけが残っているわけではありません。『今昔物語』には結構下世話な話もありますし、『とりかへばや物語』などは、ファンタジー小説としての側面も少なからずあります(女の子っぽい男の子と、男の子っぽい女の子が、父親の「取り替えたいなあ」という願望のもと、それぞれ男女が入れ替わった形で育てられる物語)。
江戸時代の「エロ小話」を集めたものなど、今のネットの落書きとさほど変わりません。「当時の庶民感覚を伝える」ということも古典の役割です。気難しく考えずに楽しんでみるのもいいものですよ。
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