前回の記事「敦賀市と聞いてピンとこない人に知ってもらいたい、福井県敦賀市のトリビア」では、新幹線「金沢・敦賀間」の延伸に向け、いまじわじわと注目が集まっている敦賀市の観光スポットを紹介しました。実はこの敦賀市には、1940年から1941年にかけて、歴史に名を残した外交官・杉原千畝によって助けられた約6千人ものユダヤ難民が敦賀へ上陸したという歴史があります。鉄道と港によって栄えた町、敦賀市の意外な歴史を紹介します。
鉄道と港の街が歴史の舞台、敦賀市
大和田銀行は現在、敦賀市立博物館に
敦賀駅前からのびるシンボルロードに設置されている『銀河鉄道999』と『宇宙船艦ヤマト』の像が象徴しているように、敦賀は鉄道と港によって栄え、今でもその歴史を大切に守っている。その一端を紐解いてみよう。
敦賀は古代から海運が盛んで、朝鮮半島や中国大陸の玄関口でもあった。江戸時代には北前船の発着点となり、関西方面と北海道方面の交易になくてはならない交通の要衝であった。敦賀では船荷問屋が北前船を所有し、多くが成功を収めた。その1人が大和田荘七(おおわだしょうしち、1857ー1947)だ。北前船で財をなした大和田は1892年に大和田銀行を設立した。
大和田荘七の像
1884年には敦賀と長浜間の鉄道が全線開通し、鉄道と船での物資輸送の拠点として栄えたものの、富山まで鉄道が延伸されると鉄道が物資の輸送の中心に。そんななか、港が危機に陥らないよう、大和田は敦賀港を国際貿易港にするよう懸命に働きかけた。その努力が実り、1899年に敦賀は国から開港場(国際港)の指定を受けることができた。
指定貿易港になったからには一定の貿易額を達成しなければならない。大和田は国際貿易港を存続させるため、自ら貿易会社を立ち上げ、中国から大豆や豆粕を直輸入し、輸入実績を残した。
1905年には敦賀とウラジオストクを結ぶ直通定期連絡船が就航。ロシアとの交流が活発になり、ロシア人観光客が敦賀を訪れてもいる。大和田は敦賀にロシア語を普及させるため、ロシア語教育の導入運動も行ったという。ソースカツ丼で知られる「敦賀ヨーロッパ軒」にはロシア語の看板が残っている。この街がいかにロシアと交流していたかを物語る証だ。
敦賀ヨーロッパ軒のロシア語の看板
先見の明のある大和田が尽力したおかげで、敦賀港は発展した。国際港の礎を築いた彼の設立した大和田銀行は現在、敦賀市立博物館となっている。隣接する「みなとつるが山車会館」の前に立つのが大和田荘七の像だ。
博物館1階には銀行のカウンターも現存する
異国の難民を受け入れた港
国際列車の前で記念撮影/敦賀市提供
1912年、ウラジオストク航路に接続する欧亜国際連絡国際列車が東京・新橋駅と敦賀港に隣接す金ヶ崎駅に運行されたことも、敦賀の発展に拍車をかけた。当時、新橋駅からフランス・パリまでの切符が購入できたという。この列車は週3回、東京を夜出発する神戸行き急行寝台列車に連結し、翌朝、米原で切り離し、金ヶ崎へ。
夕方に敦賀港から出航するウラジオストク行きの定期船に連絡した。利用客は日本人とロシア人が多かったという。ウラジオストクからは東清鉄道とシベリア鉄道に乗り継ぐことで西欧へ。
大正初期に敦賀港に上陸した外国人観光客(画像提供:『「ふるさと敦賀の回想」より』)
その一方で、敦賀港にはナチスの迫害を受け、故郷を脱出し、命からがら逃げきったユダヤ人が上陸している。
1920年にはロシア政府に反抗してシベリアに送られていたポーランド人(そのほとんどがユダヤ人)の孤児を救うため、日本政府が救出計画を立て、3回にわたって765人の子どもたちが敦賀に上陸。敦賀の人々は栄養のある食べ物を与えるなど、異国の子どもたちに親切に接した。その後、全員がポーランドへ帰国したのだ。
そして、1940年から1941年にかけて約6000人ものユダヤ難民が敦賀へ上陸した。ユダヤ人という理由だけで迫害された彼らを国外に脱出させるため、ビザを発給して命を救ったのは当時、リトアニア領事代理だった杉原千畝(すぎはらちうね、1900ー1986)だった。
杉原千畝について、少しふれておこう。1900年に岐阜県加茂郡に生まれた杉原は、早稻田大学に通いはじめ、新聞で外務省が語学を学ぶ留学生を募集していることを知る。ロシア語の試験に合格し、留学生として、ロシア人が多く暮らしていた中国・ハルピンでへロシア語を学んだ彼は、念願の外務省の職員になった。外交官として、ハルピンに長く暮らした杉原は外務省をやめ、一時期は満州外交部に勤めたことも。満州国がソ連の北満鉄道の権利を買収する際には杉原の調査結果が功をなし、取り決めを成功に導いたこともある。
その後、外務省に復帰し、日本でソ連に関係する仕事をしていた杉原はモスクワの日本大使館に勤めるはずだったが、ソ連より入国を拒否される。おそらく、北満鉄道買収の際に敏腕な手腕を発揮した彼を手強く感じたことが理由に思われる。そして、杉原はフィンランドの日本公使館を経てリトアニアの首都カウナス(現在のビリニュス)へ。1939年にノモンハン事件が起こり、日本とソ連が巻き込まれたこともあり、外務省はソ連とソ連の周辺国にロシア語の堪能な外交官を派遣することになり、杉原に白羽の矢が立ったのだ。
杉原がリトアニア領事代理となり、ナチスから迫害を受けていたユダヤ人難民に発給したのがナチスの手が伸びない国に向かうために日本を通過するビザだ。それは日本国から厳しく発給の制限を受けていたにも関わらず、「人道」で判断し、発給されたものだった。領事館の前にはビザを求める人たちが連日並び、杉原はビザを書き続けた。領事館閉鎖でリトアニアを追われ、ベルリンに向かう汽車の窓ごしでもビザを書き、それは次の赴任地に行くまで待機したプラハでも行われた。1940年に杉原が寝る間も惜しんで発給したビザは2139枚、約6000人の命を助けたといわれる。「命のビザ」を発給した杉原は晩年、命がけでユダヤ人を救った外国人におくる「諸国民の中の正義の人賞」をイスラエル政府からおくられた。
杉原と根井が学んだハルピンの旧ハルビン弘報会館付近
また当時、ウラジオストクの総領事代理だった根井三郎はハルピンで杉原とともにロシア語を学んだ仲間だ。
根井も「人道」にそって難民を救うため、自分の立場を構うことなく、日本国に滞在する難民たちの増加に強く難色を示す政府の方針に抵抗するなど、杉原が発給したビザが効力を失わないよう、懸命に働きかけた人物だ。
2人がロシア語を学んだハルピン学院の自治三決「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」を思わずにいられない。
敦賀のホスピタリティー
人道の道 敦賀ムゼウムの建物
杉原が発給したビザを持ち、日本行きの船に乗船できた難民たちがたどり着いたのが敦賀だった。敦賀の人たちは多くの避難民たちを支援した。銭湯の旭湯は無料でお風呂を開放し、人々は空腹の難民に食事を提供するなど、手厚い援助の手を差しのべたのだ。
国際港として開け、さまざまな国の人々の往来があったおかげで、敦賀の人々は外国人を受け入れる土壌が出来上がっていた。難民への支援は敦賀だからこそ成せたホスピタリティーではないだろうか。
杉原千畝の写真が印象的なムゼウムの看板
敦賀港のある金ヶ崎緑地に立つのが「人道の港 敦賀ムゼウム」だ。ここはポーランド孤児や杉原千畝の発給した「命のビザ」を持って敦賀に上陸したユダヤ難民たちに関わる資料や写真、杉原の肉声を通し、人を思いやる気持ちについて深く考えさせられる場所である。
敦賀ムゼウムの展示室©︎(公社)福井県観光連盟
ムゼウムではユダヤ難民に関する資料も
敦賀の少年がユダヤ難民に与えた林檎をモチーフにしたタオル
敦賀ムゼウムの近くにある1905年にニューヨークスタンダード石油会社が建設した敦賀赤レンガ倉庫もまた、敦賀の歴史を見てきた建物だ。
敦賀赤レンガ倉庫©︎(公社)福井県観光連盟
2015年にレストランと1945年(敦賀空襲被災時)の復元地図を参考に、敦賀の街並を約80分の1スケールで再現したジオラマを展示する商業施設となった。
シンゴジラの映画セットのスタッフによる鉄道ジオラマ
見応えのある鉄道ジオラマは映画『シンゴジラ』のセットに関わったスタッフが手がけたもので日本最大級。2015年に映画『杉原千畝』が公開されたことも重なり、金ヶ崎地区を訪れる観光客は約10万人も増えたという。
人道の港敦賀ムゼウム
福井県敦賀市金ヶ崎町44-1(金ヶ崎緑地内)
0770-37-1035
http://www.tmo-tsuruga.com/kk-museum/
敦賀赤レンガ倉庫
福井県敦賀市金ケ崎町4-1
0770-47-6612
http://tsuruga-akarenga.jp
「北陸一の駅舎」を継承する敦賀駅
明治42年6月、現在地に移転した敦賀駅(戦災にあうまで北陸一の大駅舎)(画像提供:『「ふるさと敦賀の回想」より』
1869年には日本初の鉄道4路線の1つに京都・敦賀間が決定。
そして前述したように、欧亜国際連絡列車が運行されるなど、敦賀は鉄道によっても発展した。とくに1909年から敦賀大空襲にあう1945年まで建っていた2代目の駅舎は「北陸一の大駅舎」といわれ、写真を見ると威風堂々とした佇まいだったことがわかる。
敦賀駅交流施設「オルパーク」
2014年にお目見えしたJR敦賀駅交流施設「オルパーク」は、北陸一の駅舎と呼ばれた頃のイメージを継承するデザイン。建築家の千葉学氏が設計を手がけた。当時の駅舎の特徴だった「中央玄関に擁する2つのウイング」を、木造りの「2つの箱」で表し、さらにその「2つの箱」をガラスで包むことで「縁側空間」を生み出し、敦賀の温故知新を感じさせるモダンな造りだ。
また、オルパークや駅前広場のサイン(案内掲示板)のデザインは東京オリンピックやパラリンピックの公式エンブレムを手がけたデザイナー野老朝雄(ところあさお)氏によるもの。
オルパーク内のサイン
現在、東京・金沢間が開通している北陸新幹線だが、敦賀駅まで延伸されることが決定している。
そして敦賀市は人道の敦賀ムゼウムや敦賀赤レンガ倉庫のある「金ヶ崎周辺」、北陸道の総鎮守である氣比神宮への参道でもある「本町商店街」などの整備に取り組む。敦賀駅は新たな観光客を迎え入れる玄関口となり、人々は記憶が蓄積された場所を訪れ、在りし日の敦賀を偲ぶのだろう。
敦賀駅交流施設「オルパーク」
福井県敦賀市鉄輪町1-1-19
0770-20-0689
http://orupark.jp
取材協力:敦賀市
ジモトのココロ