1月6日に起こったトランプ大統領の支持者による連邦議会議事堂乱入事件は、アメリカの民主主義を根底から覆しかねない最悪な出来事として記憶されることになりました。事件前の大統領の言動が暴力を扇動したと問題視されるなか、メルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』著者の引地達也さんは、事件前どころか5年前の大統領選に登場したときから暴力の火種を育ててきたのがトランプの言葉だとの見方を示します。引地さんは「ケア」の裏付けのない言葉の暴力が、賛同者の憎悪を育てフィジカルな暴力の素地となったと、言葉が持つ恐ろしい一面を説いています。
米連邦議会議事堂占拠事件─言葉ではじまる暴力を自覚する機会に
米国で首都ワシントンの米国連邦議会議事堂がトランプ大統領支持者による暴力で一時占拠された。映像はトランプ支持者の集会から議事堂に押し寄せる支持者と暴力で内部になだれ込む様子、そして警備員らとの暴力の応酬を伝えた。
米国の民主主義の象徴が暴力で支配される、という事実に戸惑いながら、この事態を整理していくと、そこには言葉で成立する民主主義の脆弱さを見せつけられたようで、民主主義を謳歌していても、起こりうる現実なのだと思うと、恐ろしくもなってしまう。
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トランプ支持者は集会の自由という権利を行使し、ワシントンの議事堂近くで集まり、主張をするのは美しい民主主義。それが、ある境界を越えて破壊行為をすることは、とたんに暴力になるが、その暴力は言葉へとつながっている。この自覚に立つ時、言葉を大切にすることは重要なポイントだ。そのために、言葉には「ケア」という裏付けが求められているのだと思う。
この占拠事件は、トランプ大統領支持者による「暴力」として事件化したかもしれないが、その事件はすでに始まっていた、とみようと思う。これはトランプ大統領の就任前の選挙戦から、彼が発する言葉にそれが顕著に表れていた。それ以前の彼のテレビ番組での「決めのセリフ」である「おまえはクビだ」にもその暴力性は潜んでいた。
選挙戦では対立候補を誹謗中傷する言葉に支持者は喝さいをし、対立候補の支持者は眉をひそめた。ただ、問題はそれだけではなく、その誹謗中傷が選挙という国民の権利を保証する機会の判断に関わることになったこと。
強いアメリカ、を訴える声は、強くなければいけないアメリカを望む人たちの心に突き刺さり、それは「強くなければならない」ことの正当性に免罪符を与え、強くなろうとする精神性には、フィジカルな強靭さも兼ね備える免罪符を与えるような印象を与えた。つまり、マッチョな精神性はマッチョなフィジカルを求め、それを誇示する精神性へと昇華していく。それをつないだのは言葉、であった。
以前、ブッシュ政権時代に私が訪れたホワイトハウス前では年中、反戦を訴える横断幕やポスターで政権に訴え続ける人がいた。日本でも2011年の東日本大震災の原子力発電事故以来、経済産業省前の交差点には毎日、原発反対のグループが抗議の意思を示し続けている。何らかの問題が顕著に表面化する際には抗議もデモ行進を伴い国会周辺で繰り広げられ、様々なプラカードにスローガンや主張が掲げられるが、それらは平和な言葉。暴力に結びつけない意思もあるだろう。
日本で学生運動が盛んな時の言葉はやはり暴力的で結果的に衝突に結びついた。私の学生時代には学生運動は風前の灯だったが、それでもキャンパスの目抜き通りには残党の方々が大きなべニア板に「糾弾!粉砕!」と暴力的な言葉を並べていた。ヘルメット姿の学生が演説もしていたが、それはやはり暴力と隣り合わせの構図だったから、当時の「平和な」時代にはそぐわなかった。結果的に彼らは無視される形となった。
言葉は暴力のパートナーにもなるし、平和のパートナーともなる。今回のトランプ氏の事件で自覚したいのは、彼の威勢のよい言葉に、倫理性やケア性の視点から考え直し、その暴力に気付くことである。言葉の暴力は、それに賛同する人のフィジカルな暴力の素地となる。ネガティブなイメージを記憶化し、心の中で憎悪を宿し続ける。
言葉でつながる私たちは言葉で傷つき、言葉で救われる一方で、暴力は暴力からは始まらず、暴力も言葉で始まり、その言葉が集約された情報で怒りはまた暴力に代わっていく。今回のトランプ支持者による暴力はトランプ大統領の言葉が作ったものであり、彼の言葉がこれまで宿していた憎悪を掻き立てたのである。これは、やはり暴力であると思う。
言葉が暴力を生み、それは人類への脅威であることは確認したい。丁寧に話す。嘘をつかない。そんなコミュニケーションの倫理観を確認しながら、正しくケアなる言葉を尽くして未曽有のコロナ禍という危機を乗り越えていきたいと思う。
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