「学生たちと話をしていると、地下鉄サリン事件をもう知らないんです。オウム真理教も知らない。事件が風化しているのを感じます」
1995年(平成7年)3月20日、死者14人をはじめ負傷者数およそ6300人にも及んだ凶悪テロ事件「地下鉄サリン事件」。オウム真理教が散布した神経ガス「サリン」を吸引し、現在も後遺症に苦しむさかはらあつしさん(54)は、そう語ります。
いま、一本の映画が話題となっています。それが『AGANAI(アガナイ)地下鉄サリン事件と私』。これはなんと、地下鉄サリン事件の被害者が加害者側に密着する、異色きわまりないドキュメンタリー。
映し出されるのは、オウム真理教の教祖・麻原彰晃元死刑囚の側近。のちにオウム真理教の後継主流団体「Aleph」(アレフ)へ移った荒木浩氏です。事件後のいまなお麻原に心酔し続ける荒木氏。そんな彼にカメラを向けるのは、地下鉄サリン事件の被害者であり、京都精華大学で教鞭をとる映画監督、さかはらあつしさん。
さかはらさんは、事件当時オウム真理教の広報副部長として会見の席にたびたび現れた荒木浩氏とともに、事件現場やそれぞれの故郷へとおもむきます。被害者と加害者側が行動をともにする不思議すぎるセンチメンタルジャーニーを経て、果たして加害者側は謝罪するのか、被害者はそれを許すのか。
事件の20年後に撮り終えられたこの『AGANAI(アガナイ)地下鉄サリン事件と私』、いったいどのような背景で誕生したのか。さかはら監督にお訊きしました。(取材・文/吉村 智樹)
サリンの後遺症に悩み続ける被害者
映画『AGANAI(アガナイ)地下鉄サリン事件と私』を監督した「地下鉄サリン事件」被害者のさかはらあつしさん
――さかはら監督は、地下鉄サリン事件をきかっけに、名前をひらがな表記に変えたそうですね。
さかはらあつし(以下、さかはら)「はい。映画ではそうしています。サリンを吸ったあとに、おふくろが『名前の漢字の画数が悪いからとちゃうか』『そやから、ひらがなにしなさい』と言うものですから。そういう問題ではないんやけど。でもこれ以上、心配をかけたくなかったので、従いました」
――サリンに被爆した後遺症に現在も苦しんでいると聞きました。どのような症状があるのでしょうか。
さかはら「いまだに手足がしびれます。サリンを吸って起きた縮瞳(しゅくどう/瞳孔が過度に縮小する現象)を経験したからか、軽い視野狭窄(きょうさく)に陥り、眼が疲れる。動体視力も衰えていますね。あと突然、強い眠気に襲われます。トリプルエスプレッソを飲んで目を覚ましても、だめ。『カクン』と落ちるように眠ってしまうんです。裁判の傍聴をしたり、映画の編集をしたりしている途中でも、気を失ったように眠ってしまいます」
さかはらさんが現在も目の疲れに苦しんでいる
――生活への支障が大きいですね。
さかはら「そうです。とにかく疲れやすい。こういった取材の場合などは、なんとか気力で疲れを隠しきれる。けれども家に帰ると、どーんと疲れが出て、その場から動けなくなるんです。そういった地味ながらきつい症状が重なって、ずっと心理的ストレスに悩まされています」
――外見からは、わかりにくい症状ですね。
さかはら「はっきりと目にわかる病態ではない。そのため、症状を周囲に理解してもらいにくい。サリンで被爆した被害者の多くは、現在も理解されがたい後遺症にさいなまれているんです。それをわかってもらいたかったのも、映画をつくった理由のひとつです」
サリンを吸引し、視界が真っ暗に
――思いだしたくもないでしょうが、被害に遭われた日の様子を教えていただけますか。
さかはら「当時、僕は電通に勤めるサラリーマンでした。所属していた電通のマーケティング部は9時30分出社。けれども、その日はシャワーを浴びるために早めに出勤していたんです」
――なぜ会社でシャワーを浴びるのですか?
さかはら「海外留学をする計画のために貯金をしていて、家賃3万円の風呂なしアパートに住んでいたので」
――サリン事件当日は地下鉄のどの車両にお乗りになったのですか。
さかはら「サリンが置かれた一両目です。僕が座ったシートの対面の床に、サリンが入った袋が落ちていたんです。僕が見たときにはビニール袋からサリンが流れ出ていて、包んであった新聞紙にも沁みこんでいました。ただ、それがなんなのかまでは、わかりませんでした」
さかはらさんの目の前に置かれていたサリン。袋に穴があけられ床に流れ出ていた © 2020 Good People Inc.
――漏れ出たサリンの眼の前にいらっしゃったということは、直接吸引をされたのですね。
さかはら「はい。皮膚からも被曝はするのですが、においを確かめるために2回、鼻から空気を吸い込みました。そのとき僕は新聞を読んでいたんです。新聞には偶然、前夜に『オウム真理教の信者が大阪で逮捕された』ニュースが載っていました。それで、ふと*松本サリン事件が頭をよぎったんです。『もしや、この袋はサリンなのでは?』と危機を感じ、とっさに2両目へ逃げ込みました。なので命は助かったんです」
*松本サリン事件 1994年(平成6年)6月27日に長野県松本市で発生したオウム真理教によるテロ行為。教徒らによりサリンが散布され、被害者は死者8人に及んだ。無実の人間が公然に近い形で犯人として扱われた報道被害事件でもある。翌年、阪神・淡路大震災によって事件の注目度が低下したため、オウム真理教はさらに衆目を集めるべく地下鉄サリン事件へと展開してゆく。
――サリンは、どんなにおいですか。
さかはら「シンナーに近い。加えて、フルーティなにおい。なのではじめは『この袋は、ペンキ屋さんの忘れ物なのかな』と勘違いしていました」
――2両目に駆け込んでからは、どうなりましたか。
さかはら「電通の最寄駅で電車を降り、改札を出て地上へあがりました。ただ眼の縮瞳がはじまっていて、視界が暗くなりはじめていた。歩くのが不安で、タクシーをつかまえて会社へと向かいました」
――自分がテロ事件に巻き込まれている自覚はありましたか。
さかはら「なかったですね。下車後すぐに駅構内から外へ出たので、なにが起きているのかを知らなかったんです。ただ、眼がどんどん見えなくなっていって。『コンタクトがあっていないのか』『働きすぎかな』、そんなふうに考えていました」
車両を降りたのち、視界が暗くなってゆくのを感じたという。しかしサリンを吸引したせいだと知ったのは、ずいぶん経ってからだった
――電通へ到着してからは、どうされましたか。
さかはら「まず社員用のジムへ向かいました。いつものようにまずストレッチをしたのを憶えています。すると次第に気分が悪くなり、脂汗をかきはじめました。そうしてシャワーを浴びているうちに視界が真っ暗になった。一瞬『停電かな?』と」
――もう仕事ができる状態ではないですよね。
さかはら「そうなんです。上司に『体調が悪化した』とメモを残し、病院へ向かいました。その頃にはもう眼が本格的におかしくなっていました。太陽を直視しても、まぶしくないんです。そして築地方向へ走る救急車やパトカーのサイレンが遠くから聴こえてくる。『これはいま、東京で大変なことが起きている』と感じました。やっと聖路加病院へ辿り着くと、院内はまるで野戦病院のような惨状になっていて……。そのままストレッチャーに乗せられ、診察室へと運ばれました。それでも、なにが起きているのかまでは、わからなかった。『自分は事件に巻き込まれたのだ』と知ったのはずっと後です」
――医師からは、なんと診断されましたか。
さかはら「私を診ているお医者さんに、別の若いお医者さんが『二次感染の可能性ありますか?』と尋ねたんです。すると『まったくわからない』と返事をしていました。それを聴いて、死を覚悟しました」
――のちに死生観など心境の変化はありましたか。
さかはら「ありました。人はいつ死ぬか、わからない。人生はなにが起きるのかわからない。正直に生きよう。自分を曲げないで生きよう。いつも本当のことだけを言おう。そう誓いました」
「人はいつ死ぬかわからない」、身を以ってそう感じた
自分を苦しめた「オウム真理教」について知りたかった
――なぜ、この映画を撮ろうと思われたのですか。
さかはら「オウム真理教が引き起こした凶悪なテロ事件の被害当事者に自分がなるなんて想像もしなかった。『僕たちをこんな目にあわせたオウム真理教って、いったいなんなんだろう』。僕はオウム真理教についてなにも知らない。同じく被害者の多くが、オウム真理教について詳しくはよく知らないままサリンに被爆している。こんなにもむごい事件を引き起こせるのは、いったいどんなやつらなんだ。ぜんぜん知らん。だから、知りたいなって。それが映画を撮った大きな理由のひとつです」
――オウム真理教の教団広報副部長をつとめた荒木浩氏に連絡を取ったとき、映画化は考えていたのですか。
さかはら「映画化は、初めから考えていました。アポを取ったのは『映画を撮りたい』と思ったからです。荒木さんは当時のオウム真理教内部の様子を知っており、いまだに麻原を崇拝し続けている。そんな彼の話が聴きたかった」
荒木浩氏が広報部長をつとめる宗教団体「Aleph」(アレフ)の道場。現在も麻原彰晃を敬うポスターなどが多く掲げられている © 2020 Good People Inc.
――映画を観ていて、まず不思議だったのが「なぜ荒木氏は自分が批判されるに違いない映画の出演を許諾したのか」でした。被害者と対峙するなんて避けたいじゃないですか。
さかはら「確かに。僕は絶対に映画にしたかった。反面、『彼はさすがに出演しないのではないか』と懸念も抱いていました。荒木さんは『A』(森達也監督)というドキュメンタリー映画にも出演しています。けれども、今回は状況が違う。地下鉄サリン事件の被害者が加害教団の人間を撮影するわけですから。僕が激昂し、荒木さんに暴力ふるったとしても、その心情を理解してくれる人はいるでしょう。荒木さんは絶対的に不利だった。そういった緊張感が伴う関係性のなかで出演してくれた。『評価する』という言い方もおかしいですが、勇気があるなと」
2015年3月20日、さかはらさんに付き添われ、荒木氏は事件現場となった東京「霞ヶ関」駅へ献花に訪れた © 2020 Good People Inc.
――出演依頼に対し、荒木氏はすぐにOKをしたのですか。
さかはら「いやあ、簡単ではなかったです。およそ一年間、土下座を辞さぬつもりで粘って粘って交渉を続けました。最初は『断られたらカメラを抱えてアレフの道場へ突入する』など撮影の強行プランまで考えていたくらいです。そうして撮入予定日の2日前に、やっと出演の承諾を得ました。『出ます』と」
――やはり説得には時間を要したのですね。それにしても長い時間、ずっと被害者とともに過ごすって、荒木氏はどういう心理だったのでしょう。
さかはら「荒木さんの心のどこかに贖罪の気持ちがあったのか。あるいは、この映画に出て『自分はこれからどうなってしまうのか』と好奇心が湧いたのかもしれない。ただその点については多くを語らず、『映画に出る運命にあった』とだけは言っていました。出演依頼の連絡を初めて受けたとき、荒木さんは『ついに来たか』と感じたそうです」
出演を決めた荒木氏は腹をくくったかのように、さかはらさんと行動をともにするようになった
――「映画に出る運命」とは、なにに対してそう感じたのでしょう。
さかはら「撮影が2015年。麻原の死刑執行が2018年。撮影時には麻原の死刑は確定していましたから、荒木氏は自分のなかで何かが起きる、あるいは壊れる気がしていたのでしょう。信奉する麻原が死刑になれば、自我が崩壊するかもしれないわけですから。オウムに捧げた自分の人生を否定することになる。そうなるかもしれないという運命を感じたのでは」
――麻原の死刑が執行されたとき、荒木氏はどのような気持ちだったのでしょう。
さかはら「荒木さんは麻原の死刑執行の直後に入院しました。きっとショックだったのでしょう。なので、どういう気持ちなのかを訊くなんてできませんでした。ただ、その後にアレフの信徒獲得数が増加しており、麻原をあがめる気持ちがむしろ強固になった感があります」
信者と過ごして見えてきた「洗脳」の恐怖
――映画を観ていて感じたのは、荒木氏の麻原観の奇妙さです。麻原を尊敬しているというより、麻原についてこれ以上考えるのを止めている、そんな気がしました。オウム真理教の幹部たちがサリン事件などの凶悪犯罪を実行したのは認めている。にもかかわらず、偉大なるグルはそうではない。そんなふうに考え、そこで思考が停止しているように思えました。
さかはら「思考停止、そう、止まるんです、思考が。荒木さんはある瞬間から突然ガンコになるんです。僕はバケツの水が凍っているように感じました。バケツの氷って、時間とともに表面1センチくらいはゆるっと揺れるでしょう。指で押すと揺れ動くじゃないですか。荒木さんにも心情が揺れる人間らしい部分があるんです。ところが話が麻原に及ぶと、そこから先はガッチリ凍っている。25センチくらいのブ厚い氷が、いっこうに溶けない。そういった印象でしたね」
さかはらさんとの旅の途中、荒木氏は車窓を眺めながら入信前の家族や親族との触れあいを思い返し、万感の想いがこみあげる。荒木氏の気持ちが揺れる貴重なシーン © 2020 Good People Inc.
――それが「洗脳」なのでしょうね。
さかはら「麻原を疑うと、自分の心が壊れる。それを恐れているのでしょう。麻原の罪について考えると来世、その次も地獄に落ちる。オウム真理教時代に恐怖を植えつけられている。その恐怖は、彼がいまだに麻原を崇拝している理由でもあると思うんです」
被害者が「謝罪を求める映画」ではない
――この映画は荒木氏のドキュメンタリーでありながら、さかはら監督自身のドキュメンタリーでもあると感じました。終始、平静を装う荒木氏に対し、友人のようにあたたかく接する。そうかと思えば、ことの重大さをわかっていなさそうな彼に激怒するシーンもある。事件当日から撮影日までの、さかはらさんが苦悩した日々が映像に刻まれていました。
さかはら「よく『謝罪を求める映画だ』と捉えられるんです。けれどもそれは違う。荒木さんに謝ってほしいとは思ってない。謝罪をしてもらっても僕は助からないし。とはいえ撮影中も怒りが湧いてきてね。怒りを理性で抑える、それの繰り返しでした」
――敵対と呼んで大げさではない関係でありながら、心が通いあうシーンもありましたね。特に電車移動中にふたりでイヤホンを分けあって同じ音楽を聴くシーンは、とても微笑ましかったです。あれはどんな曲を聴いていたんですか。
さかはら「ジェリー藤尾の『遠くへ行きたい』です。映画の企画を考えていたとき、なんとなく聴いていた曲なんですが、次第にこの映画のテーマ曲のような気がしてきて。荒木さんが出家したのも『遠くへ行きたい』気持ちからだったですし」
ジェリー藤尾の『遠くへ行きたい』をひとつのイヤホンでふたりで聴く、まるで友情すら感じさせるシーン © 2020 Good People Inc.
――お互い友情を感じてさえいるように見えましたが、撮影終了後や映画の完成後に荒木氏とお会いになりましたか。
さかはら「何度も会いました。僕はあきらめきれなかった。いい加減、麻原を信奉するのをやめてほしかった。麻原の教義を引き継ぐ教団を解散してほしかった。しかし日本には信教の自由がある。やめろとまでは言えない。ならば『せめて若者への勧誘活動は止めないか』と。あの頃、彼らは信徒獲得のためのマーケティングが進んでいました。心が弱っている人に寄り添うノウハウが次第に巧妙になっていたんです。女子会を装ったり、心象風景を描く会なのだと迫ったり。それで『信者集めはもうやめよう。社会のために働こうよ』と伝えた。しかし、荒木さんの心は変わりません。そうして彼は僕を、だんだん避けるようになっていきました」
2015年3月20日、さかはらさんとともに献花に訪れた荒木氏は記者に囲まれた。苦しい胸の内は語ったが、被害者に対する正式に謝罪の声明はなかった。© 2020 Good People Inc.
自分の心の変化に動揺したのか、撮影後の荒木氏は、さかはらさんに対し頑なな姿勢を見せはじめたという
――最後に荒木氏に連絡を取ったのは、いつですか。
さかはら「2週間前に電話をしました。つながりました。荒木さんは電話には出てくれた。声は聞こえた。けれども、こちらの声が荒木さんへ届いていないのか、会話にはならず。それで終わりでした」
この日の取材は、さかはらさんが荒木氏を自分の両親に会わせる衝撃のシーンが撮影された、京都府長岡京市にある八条ヶ池の回廊にて行われました。
事件により人生を狂わされ、未だに精神的にも肉体的な苦しみを抱える被害者たち。その「被害者」が「加害者」にカメラを向ける、過去にないシチュエーションです。ここでは客観性や中立性をよしとする本来の「ドキュメンタリーの常識」は捨て去られています。冷静ではいられない男と、不条理なまでに冷静な男。当事者どうし逃げ場がない環境で見つめあう。果たして「わかりあえる」なんてありえるのか。
事件が風化しつつあり、おかしなカルトの教祖たちがネットメディアに跋扈しはじめた昨今。だからこそ、観ておきたい映画だと感じました。
© 2020 Good People Inc./Photo by 2020 Nori Matsui
「AGANAI 地下鉄サリン事件と私」
監督:さかはらあつし
出演:荒木浩、阪原武司、阪原多嘉子、さかはらあつし
2020年/114分/
1995年3月20日、あの朝、私はそこにいた。未曾有のテロ、地下鉄サリン事件。オウム真理教は東京・霞ヶ関駅を通過する3つの地下鉄路線を走る5つの車両に、猛毒の化学兵器「サリン」を一斉散布した。被害者の映画監督が、今なお活動を続けるオウム真理教(現Aleph)の広報部長と20年の時を経て対話の旅に出る。海外の映画祭で話題になった衝撃のドキュメンタリー。