アジアをバイクで駆け、魅力的な写真を取り続ける三井昌志さんが、このたび8冊目の著作「渋イケメンの国」を上梓。そんな三井さんのメルマガ『素顔のアジア (たびそら・写真編)』でも、8名の渋イケメンが紹介されています。たしかに、渋い。
渋イケメンは胸を張る
僕はいつもテーマを決めずに旅をはじめる。どこへ行くのか、何を撮るのか、具体的な予定を一切立てないで、とにかくまず走り出すのだ。小さなバイクのスロットルを回して。
風景が流れていく。雲も流れていく。暗い森を抜け、茶色く濁った川を渡る。灼熱の砂漠を横切り、石ころだらけの山道を登る。ときどき山羊の群れとすれ違う。井戸で水を汲む女たちとすれ違う。街には鍛冶屋が鋼を打つ音や、家具職人がノコギリを引く音が響いている。食堂からケバブの焼ける匂いが漂ってくる。ひと仕事終えた男たちがグラスに入ったチャイを差し出す。「あんたも一杯飲んでいけよ」と。
そうやってあてのない旅を続けていると、自分がいま何を撮るべきなのかが次第にはっきりしてくる。心のアンテナを大きく広げていれば、被写体が「撮ってくれよ」と呼ぶかすかな声が聞こえるのだ。僕がすべきなのは、その呼びかけに素直に応じることだけ。難しくはない。鼓膜をふるわせるさまざまな音の中から「その声」だけを聞き分けられれば、あとは自然に体が動いてくれる。
渋いイケメン。どこにでもいるようだけど、そこにしかいない特別な男たち。それが今回の旅のテーマになった。
渋イケメンはいつどこに現れるかわからない。混み合った市場で大声を張り上げていることもあれば、収穫した稲穂を頭に載せて田んぼを歩いていることもある。狭い仕立て屋でミシンを踏んでいることもあれば、リサイクル工場でゴミの山と格闘していることもある。
しかしどんな場所にいようとも、渋イケメンたちの存在感は際立っていた。「いぶし銀」という言葉がふさわしい、鈍い光を放っていたのだ。彼ら自身は外見にほとんど気を遣っていなかった。破れた服をそのまま着ている人もいたし、上半身裸で働く人もいた。それがまたカッコ良かった。自分に与えられた仕事を黙々とこなすうちに必要な筋肉が付き、身のこなしが洗練され、外見に味わいが出てきたのだろう。彼らの肉体には必要なものが必要なだけある機能美が備わっていた。