後水尾上皇は、公家諸法度(くげしょはっと)や禁中並公家諸法度(ぶけしょはっと)などの法令によって、天皇の権威を幕府に奪われ、文芸の世界に追いやられていました。そして、すでにお世津という女性との間に子供がいたにも関わらず、幕府は徳川の血を皇族に入れるため、徳川家の祖・家康の孫娘である和子(二代将軍秀忠の娘)をわずか6歳で後水尾上皇の正室として押しつけたのです。その結果「邪魔者」となった梅宮が出家して仕方なく住んでいたのが円照寺でした(円照寺は現在奈良県にあります)。しかし、今度は後水尾上皇が離宮を造る際、幕府が与えた土地は残酷にも円照寺から梅宮を立ち退かせて用意した場所でした。
また、後水尾上皇が高僧に与えた紫衣(しえ)を無効にし、上皇が勝手にそのような権限を行使したことを理由に島流しにした後、31歳とまだ若かったにも関わらず隠御所・仙洞御所を造られ引退を促されたのです。紫衣とは、紫色の法衣や袈裟(けさ)で、高徳の僧や尼が朝廷から賜るものです。僧や尼の尊さを表す大変名誉ある勲章のような物だったと同時に、朝廷にとっては貴重な収入源の1つでした。
徳川家は今でも京都ではあまり良く思われていないようです。おそらく京都人はこのような幕府の横柄な態度を良く思わなかったからでしょう。徳川家康は、神泉苑という御所の禁裏の神苑も取り上げ、著しく敷地を縮小し、その池を自分達の京都の居城・二条城のお堀に当てたりしていることなども許せないことだったのだと思います。
さて、修学院離宮は1652年から1659年までの間15年も構想に時間をかけて造営されました。下と中の茶屋は比較的小規模で、上の茶屋は「浴龍池」と呼ばれる巨大な池を中心とした池泉回遊式庭園となっています。数か所に茶亭などが配されていて、灯籠や飛び石などと共にしつらえが施されています。
修学院離宮も桂離宮も両方とも皇室内の近い親戚同士によって造られたにも関わらず、一方は雄大、他方は繊細と造形上の大きな対比があります。
修学院離宮の雄大さは特に上中下3つのお茶屋をつなぐあぜ道に象徴されます。そのあぜ道を歩いていると、見渡す限り田んぼの風景で、遠方には比叡山、北山、東山が見渡すことができ、その場所が邸宅内だと思えない広さなのです。上の茶屋の巨大な池、「浴龍池」なども大きな龍が背骨を水面から出して水浴びしているように見えるため名付けられたと雄大そのものです。
幕府からしいたげられていたにも関わらず後水尾上皇自身、雄大な人物だったことは子供の数から見て取れます。男15人、女17人、計32人の実子があり、大病もせず51年も上皇(天皇の上の位)として院政を仕切ったといいます。明正、後光明、後西、霊元と4人の子が天皇になるのを上皇という立場で見届け、昭和天皇に次ぐ85歳の長寿を全うしたのです。修学院離宮の雄大さは後水尾上皇の重厚長大な人生を生き抜いたことに由来しているのかもしれません。