その戦う姿勢の結果は、適度な波で訪れた。中日で2度の優勝はどちらもチームカラーを変えての快挙だったし、阪神の優勝は「ダメ虎」再生を完成させ、楽天の優勝は東日本大震災の被災地を勇気づけた。気づけば、優勝は1988年、1999年、2003年、2013年で、40年間にわたりすべての年代で優勝を達成しているのも感慨深い。特に楽天の優勝は個人的にも印象的だった。
テレビというメディアに失望し、私がテレビを見なくなってしばらくして東日本大震災が起こった。そこで決定的にテレビは観なくなったのは、震災を生で受け止めようと思ったからで、私は被災地に向かい、メディアで伝えられる震災から離れた。時折、何かの拍子で目に入るテレビ画面からも目をそらした。ある日、星野監督が被災地を訪れるシーンでさえ、震災に野球ができることなどない、と冷ややかに思っていた。
しかし、星野氏は被災地に「野球ができること」を確実にやってのけた。楽天の優勝が決まる日、私は宮城県南三陸町の「ホテル観洋」で町内の敬老会イベントでスピーチし、震災の風化を防ぐために作詞した歌曲「気仙沼線」を歌手の大至さんとともに披露し、町内の仮設商店街「さんさん商店街」のステージにも立った。優勝はその日の夜。さんさん商店街のステージは野球中継のパブリックビューイングの場となり、優勝の瞬間から歓喜がこだました。私が作詞した歌曲など、ちっぽけなものに思えてしまった。
幼い頃から私は星野氏に鼓舞され続けてきたから、突然いなくなる、というのはやはり寂しい。同時に、これまでの与えられた何かを考えると、私も何かに真剣に取り組み、その姿で誰かを勇気付けられればと思う。