いま良いのは単純にラッキーなだけ
僅かばかりの期間の夏休みに入った時、学生のいる家庭では、子供が家にいる機会も多くなっていただろう。「うちの子は大丈夫シンドローム」気味であっても、わが子がのんびりしている姿を見て安心する保護者も多かったに違いない。
しかし、それは単純にラッキーなだけだと思っていた方がいい。
いざいじめの被害者になったら、体罰の被害者になったら、その先は、川口市の被害者と同様の立場になるかもしれないのだ。
今、 大人たちにできることは、全てを他人事にしないことだ。対岸の火事ではない、まさに真横にある危険であり、落とし穴だと考えた方が良い。
私のところに寄せられるいじめの相談では、大半の保護者がこう言う。
「まさか、こんなにも学校や教委の対応がめちゃくちゃだとは思いませんでした」
「いじめの定義も知らない担当者が出てきて驚きました」
みな自分のところは大丈夫だと思っていたのだ。
いじめ問題を話すと、よくある質問に「いじめられる子の特徴ってありますか?」というものがあるが、 正解は「いじめは加害者の選択である」。
つまり、いじめは、いじめてやろうという加害者の行為が全てであって、これは体罰も同様なのだ。
そして、川口訴訟を見ればわかるように、いざとなれば行政としてしっかり処分して文書が残っていても否定したり、県教委から質問されても答えないということが通用してしまい、誰も責任を取らなくていいということが起きている現実を直視すべきなのだ。
もしも、「こんなのおかしい」「変だ」と思うなら、これを変えるのは専門家や御上(おかみ)ではなく、我々市民の声を政治に反映させなければならない、ということを忘れてはならない。
編集後記
私の記事を読んで「これが事実だとするならば」という前提を書いてから意見をいう人がいます。ハッキリ言います。事実です。行政文書や開示された公文書に基づいているところも多くありますし、証言の録音や議事録も多く私の手元にはあります。
こういう書き方をする人は、全てが他人事であり、経験不足から想像する力が欠如しているのではないでしょうか。
いじめ問題や体罰問題は、多くの方が他人事であるように私には思えます。
「あー、こんな酷いことが起きていたんだ、可哀想だな、被害者の人・・・」
その実、私もこうした問題にかかわるまでは他人事でした。
テレビの画面の先や新聞記事の向こうで起きていることは、目の前で起きた事ではありませんから、なんとなくの情報としてとらえていたのです。
ただ、問題に携わるうちに、このなんとなくの他人事というのが多く事実を歪める権力に利用され、本来問題としてすぐに是正すべきものが放置され続けてきたということがわかりました。
ある県では、被害者遺族が記者会見をしましたが、マスコミメディアが全て握りつぶしたという事実も浮上しています。権力の連携が進めば、本来第三の目として機能するはずの報道すら機能しないのです。
しかし、今はSNSがあり、個人が発信できるようになりました。それによって、そんな事実があったのかと驚くことも多くなってきているはずです。もちろんリテラシーは必要ですが、被害者や遺族が発信するものの多くは主観的であっても、多くの事実が内包されています。
私たちは、少しでも関心があることであれば、投票としての政治参加や社会的な個人発信ができるSNSで、自由に議論してよいと思うのです。そうした議論や意見の主張が大きな局面を変えることもあるわけです。
そのために私は、脅迫や嫌がらせを受けつつも、事実の発信を続けています。私にできることは、調べ、発信し、被害者などに寄り添うことだけです。
一人ができることはごくわずかだと思いますが、それをするかしないかは大きな差だと思います。どうか読者の方々も自分なりの第一歩を踏み出してもらえればと思います。
もう第一歩は踏んでるぜ、という方は、もう一歩、もう一歩と歩みを進めたら凄いと思います。
image by: Shutterstock.com