前挙げた自動車移動の欠点の1つに、何もできないというのがあった。実はこのこと自体が自分にとっては好ましいものとして作用しているのではないかと思えるのである。振り返ってみれば、我々の生活の中から何もできない(故に何もしない)時間はどんどん無くなって行った。そしてスマホの普及でそれは今日決定的なものとなった。
しかし、自分にはどうやらその時間が必要みたいなのである。運転中であれば、電話やメール等に即応答できなくてもそれを責められることはない。自分にとって半日なりの運転時間は玄関先に避客牌をぶら下げているのと同様の精神的効果があるようで、故にこれを好むのであろう。
さらに精神的効果の面から言うと、自動車が自分で操れる道具の中で最速の存在であるという事実も大きいように思う。自分は良い意味でも悪い意味でも沈潜する性質である。そんな自分にとり時速100kmでひたすら前進するという現象そのものが心地よいのであろう。
遠くに見えていた街の灯がどんどん近くなり、知らぬ間に自分もその灯の一部となって明るい道路を走っていると、いつしかその灯もバックミラーの中で遠く小さくなって行く。当たり前の物理現象だが、たとえ物理的であっても前に進むということがそのまま精神的な前進感を幾許かは満足させるのであろう。
そう考えれば、クルマに限らず、バイク、自転車、ジョギング、いつもと違うスピードで前進するという行為は精神的に前進することの代替的行為と言えなくもない。やはり人間にとって前へ前へと走ることは必要なことなのかもしれない。
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