【裁判沙汰】
その後も、私の「騙され上手」ぶりは、続いています。最悪だったのは、「映画や雑誌を製作するから」という甘い言葉に誘われて、某会社の社長に祭り上げられたことです。さすがにこれは危なかったです。社長になってみると、その会社の経済状態は滅茶滅茶、家賃の支払いも滞っている始末。さすがに、これは負債を私に背負わせるのが目的だったのかと気づきました。
ところが、私が社長を辞めると言い出すと、前社長やらその取り巻きの役員やらの態度が豹変しました。辞職は認めないと大騒ぎ。挙句の果てに、前社長の愛人が映画の脚本家をそそのかし、訴訟まで引き起こす始末。世の中怖いですね。テレビドラマのようなことが本当に起るのです。
幸いなことに、私を引き受けた弁護士事務所の先生方がしっかりした人たちで、私の辞職を法的に認めさせ、裁判でも勝つことができました。民事訴訟の場合、現在、およそ8割がいわゆる「和解」という形で決着するのだそうです。なんとなく、「訴えた者勝ち」「ごね得」という感じがしませんか?実際に有罪無罪の判決が出されるケースは、ごく少ないのです。
しかし、私は弁護士さんたちを信頼していました。場合によっては最高裁までもつれても構わないと腹をくくりました。それが良かったのでしょう。異例の無罪を勝ち取ることができました。第一審の無罪判決が出た時点で、私たちの弁護団の迫力に負けた相手側の弁護士は、結局、上告を諦めたのです。
【信じ込みやすさ】
私が「騙され上手」である原因のひとつは、人を信じやすいことにあります。というよりは「信じたくてしょうがない」のかもしれません。
前述の裁判沙汰でも、私は弁護士さんたちを信じました。もちろん、彼らは、裁判の厳しい現実についても隠すことなく私に教えてくれました。民事では前述のような判例の現状があり、完全に無罪を勝ち取ることが難しい以上、和解に持ち込むことも覚悟するようにと告げられました。しかし、私は、彼らが示すわずかな可能性を信じたのです。
こうした体験を通して私が理解したことは、確かに私は「騙され上手」で、これまで何回も懲りずに騙され続けて来ました。しかし、その一方で、私の「信じ込みやすさ」が幸いして、永年に渡る友人を得たり、思いもよらぬ成功を勝ち取ったりしたことも事実なのです。
騙されることも、信じることも、どちらも一種の能力?!で、両者はコインの表と裏なのかもしれません。確かに、物事にはポジティブな面もあればネガティブな面もあります。全てを合算すれば、プラス・マイナス・ゼロなのかもしれません。
そして、そんな欠陥を抱えた私が、どうにかこの歳まで生き延びて来れたのは、ひとえに周りの人たちのおかげです。先ほどの弁護士さんたちはもちろんですが、家族や友人たち、彼らがいなければ私のような者はどうなってしまったか、分かったものではありません。皆々様に、ひたすら感謝の今日この頃です。「ありがたや、ありがたや」
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