会社を辞めて感動「いつまで寝ていてもいい!」
春日 昔の仕事の話をしていて思い出したけど、以前大学に教えに行っていたことがあってね。冬の朝に上野で京成線に乗り換えて北千住方面に向かうんだけど、まあ寒くて嫌で嫌で。
でも、途中に谷中の墓地がパノラマみたいに見渡せる場所があってさ。そこを通る時、墓地に朝日がきれいに差し込んでるのを見ると、ちょっと救われるような気持ちになったんだよね。墓石に光が当たって、なんかすごいあったかそうでさ。「ああ、あの中に入りたい」なんて思ったりしてた(笑)。
穂村 いきなり墓地かあ、のんびり温泉に浸かるくらいじゃ駄目かなあ。今は、東京の西側にある三鷹から、東側の足立区にある病院まで電車で通勤しているんだよね? どんなルートなの?
春日 朝は中央線各駅停車で秋葉原まで行って、日比谷線に乗り換えてそのまま東武線に入り、梅島か西新井まで行く感じかな。
穂村 はいはい。
春日 穂村さん、あのへん知ってるの?
穂村 知ってるよ。会社員をしてた頃に同じ路線を逆向きに使ってたから。あの頃は、酔っぱらったサラリーマンが車内で小学生に土下座してたり、自分の狭い世界像からははみ出すような現実を見せられては「うー」ってなってたな(苦笑)。なんだかわかないけど、もうやめてくれよ、みたいな気分。先生は、通勤中は何して過ごしているの?
春日 たっぷり1時間半はかかるから、まあ読書したりしているかな。三鷹が始発だし、日比谷線も都心に向かうのとは逆方向だから、ほぼ座ってられるしね。あとは、ぼんやりと「物に生まれ変わったらどうするか」とか考えたりね(参照:【第11回】なんでいつもこうなるんだ…人はなぜ、負けパターンに縛られるのか?)。でも、通勤は嫌でしょうがないな。
穂村 じゃあ、お医者の仕事そのものは嫌じゃない?
春日 全然平気。嫌なのは通勤だけ。それこそ「どこでもドア」が欲しいよ。
穂村 話を聞く限り、仕事もすごく大変そうだし、僕が先生ならとっくに医者はリタイアして物書きに専念してると思うな。実際、会社が辛くて辞めちゃったクチだしね。
春日 それは穂村さんが、物書きとしての自信があるからだよ。
穂村 そうかなあ。自信より何より、とにかく勤めるのが嫌だっていうのが大きかったけどね。
春日 それに医者を辞めたら、俺の人生、何のリアリティもなくなっちゃうと思うしさ。
穂村 人生のリアリティ? 人生にリアリティなんてない方が気楽じゃない?
春日 いやぁ、取り留めもない感じになっちゃいそうな気がしてね。メリハリもなくなり、根性も真剣さも雲散霧消してしまいそうで。
穂村 僕は、会社のリアリティほど苦しかったものはないけどね。
春日 それは、仕事上いろいろと押し付けられたりしたからじゃないの?
穂村 まあ、でも、総務だから当たり前だよね。そもそも会社のリアリティってものがぴんとこなくて、ぜんぜん体が動かないんだよ。社長にタクシー止めさせちゃったり、いろいろヤバかったけど、でも命に関わるようなことはない。
一方、先生の場合、患者さんと家族の人生とか、時には生死まで肩にかかってくるわけでしょ? そっちの方がずっと大変そうだけど。
春日 でも、日々ささやかな勝利感みたいなものもあるからさ。患者が生活を立て直すきっかけになれた、とか。もっと別な考え方もあることに気付いてもらえた、とか。あるいは、ひたすら他人を拒絶するばかりだった患者と冗談を言い合えるようになった、とか。
らしくない言い方をするなら(笑)、一種のやりがいみたいなものを感じているから、この仕事を続けてられるんだろうね。
穂村 偉いなあ。僕は、会社を辞めた時は天国かと思ったけどな。毎朝好きなだけ寝てていいんだ! って。
春日 将来が不安にはならなかった?
穂村 それは不安だった。四十二歳で、その時点で、もう組織はどこも雇ってくれないだろうな、って年齢になってたし。でも、それを上回る解放感があったから。「好きな時に寝ていい」というのが、自分の中で、2番目の夢を圧倒的に引き離すくらいの1番大きな願望だったのね。
会社にいながら「今、1時間昼寝させてくれたら1万円払ってもいい!」って何度も思ってたくらいでさ。そんな状態で起きてたって、仕事とかできるわけない。会社にいる間中、「ただ起きているだけ」みたいな感じで、そんなの効率悪いじゃん、昼寝した方がいいじゃん。でも会社員である限り、それは許されないんだよね。
春日 普通は、そういう時は前の日に早く寝るとかして対処するんじゃ?
穂村 それは分かるの。だけど、なんかできないんだよなあ。
春日 なんか患者さんを前にしているような気分になってきたな。「それは理屈から言ってこうでしょ? だから、こうすればどうですか」と理路整然と言っても、「いや、だけど……」って屁理屈をこねる人が少なくなくてね。
「だけど」じゃないだろ! とは思いつつ、俺はすごく優しい声で「それじゃダメですよ。だけど、気持ちはよく分かります」って言うんだけどさ(笑)。