高性能のカメラを使い、フォトショップとライトルームを駆使して写真の質を高めるのは、写真家として基本中の基本だ。しかしもちろん、それだけでは不十分だ。プロとして食っていくためには「カメラの性能ではない何か」を写す必要がある。機材の性能を超えたものを表現し、伝えていかなければいけないのだ。
もちろん同じ場面を撮るんだったら、高価なカメラ・高価なレンズで撮った方が絶対にいい写真が撮れる。しかし実際には「その場面」に辿り着けるかどうか、見つけられるかどうかの方がずっと重要だ。構図の力というのは「ありふれた日常の中に美を見出す発見力」なのだ。
…ということをツイッターに書いたら、これを読んだ人から、こんなリツイートが寄せられた。
俵万智さんの『サラダ記念日』以降、猫も杓子も歌を詠みたくなったけど、理由はおそらく「簡単そうに思えた」からだろう。つまり、自然に見えるくらい完成度が高かったということ。写真も簡単に撮れたように見えるものほど、素晴らしい。言った本人は分かっていなくても、褒め言葉と受け取っていい。
それに対して、僕はこう返信した。
いや、さすがに「褒め言葉」じゃないでしょう。俵万智さん本人に「あなたの短歌って誰でも書けるものですよね」と言った人がいたとして(いないだろうけど)、それを俵さんが「これ、褒め言葉ね」と受け取るとは到底思えませんから。けなすつもりはないけど、まったく褒めてはないですよね。
彼が放ったひとことが褒め言葉だったのかどうかはさておき、人を褒めるのが下手な人ってけっこういると思う。女性より男性に多い気がする。去年開いた写真展の会場でも、僕の写真とは直接関係ないマスコミ批判と自慢話を延々と15分ぐらい続けた後(ほとんど聞いてなかったけど)、最後の最後に「でもあなたの写真は素晴らしい」と言われて、「えぇ!褒めてたんや」とのけぞったことがある。
写真を撮ることと、人を褒めることは、似ているのかもしれない。どちらも「人が見逃すような小さな美点に注目して、それをうまく切り取る」ということだから。でも写真家がみんな褒め上手かというと…まぁ全然そんなことはないなぁとも思う。
写真家は「褒めの力」をシャッターに込めている、と言えるのかもしれない。「この表情、この光、この構図が素敵だ」と感じた瞬間を、言葉ではなくて、写真に記録するという行為を通じて表現するのが、写真家の仕事なんじゃないだろうか。
image by: Masashi Mitsui