古代日本人の海外での活躍阻む3つの壁とは
古代の日本人が海外で活躍するには、いくつかの難しい条件があります。 一つ目が言葉です。日本語は文法だけでなく発音も特別です。中国音をそのまま取り入れた単語さへ、その多くが中国では伝わりません。以前に少し取り上げさせていただきましたが、ハ行音が無かったなど、日本にはない音があったことが大きな要因です。日本で中国の言葉を学んでも、中国では使えなかったのです。
言葉を不自由なく話すためには、少なくとも3年、普通5年は必要だと思います。本を読みこなすということになると、今度は音ではなく語彙の多さが必要になります。覚えれば良いのですが、現在のように辞書もない時代に、かつ、書物も手に入らない環境で、語彙を増やすことは至難の業でした。言葉の壁はとても大きかったと思います。
二つ目が、人脈が存在しないことです。古代、特に、限られた範囲でのコミュニケーションが中心の時代、どの人を誰から紹介してもらうかは非常に重要なことになります。ある人が推薦してくれたとするなら、その人物の度量が加わって信頼度が変わります。誰の人間関係もなく、知る人もいない社会で、新たに信頼を得て人間関係を築き、かつ、その輪を広げて行くのは非常に難しいことです。この構築にも、実績を示す必要があり数年、数十年を要することになります。
三つ目が資本です。何をするにもお金が必要ですが、古代日本人は海外のお金を得る手段がありませんでした。ですから、他の国に渡っても全くお金がない中でのスタートになります。資本ゼロで成せる事は何もありませんから、まず、基本となるお金を稼ぐ必要があります。
これ程、大きなハンデがある海外での活躍ですが、それを成し遂げた天才が存在していました。その人の名は阿倍仲麻呂です。日本が日本という名の国家を成立させ、ようやく基盤を整えるための土壌のできた年、すなわち、大宝元年(701年)に彼は生まれます。
お父さんは阿倍船守。天皇の補佐や詔勅の宣下や叙位などの朝廷に関する職務を担っていた中務省(なかつかさしょう)に勤めていました。今でいう、宮内省と首相官邸を併せ持ったような仕事をしていたところです。
そのトップを中務卿と言い、その下に事務官がいました。事務官のトップが大輔(だいすけ)です。今で言うところの事務次官です。お父さんの仕事は、この中務大輔でした。この地位につけるのは正五位上の人でしたから、貴族の一人であり非常に良い家柄であったと言うことができると思います。ちなみに、おじいさんは筑紫大宰帥、つまり太宰府の長官でした。位は正三位です。