日本の歴史上、海外でもっとも成功した人物を知っていますか?

 

子供の頃から神童の呼び声が高かったようです。古今和歌集目録に記載された「国史」からの引用によると「霊亀二年(716年)選を以って入唐留学生となる。時に年十有六」と書かれています。数え歳で16歳、つまり、今の中学三年生で、唐への留学生に選ばれました。

異国の地で最も努力した日本人

この若さ故の吸収力でしょうか。我々の高校、大学に当たる時間を唐で勉強できたわけですから、彼にとっても幸せなことであったと思います。若くして、唐に渡ることができたことが、彼に成功をもたらした大きな一因だと思います。

遣唐使も、初期の頃とは異なり、この時代には船4艘を連ねて、550人以上の大所帯で出向いていったようです。同時に、唐に渡ることができた人は多かったようですが、海賊に対峙するためでしょうか。武人が沢山乗船していたようです。知識人は30名程であったようで、その中の一人が阿倍仲麻呂でした。

長安の大明宮で玄宗皇帝に接見し、留学生達はその後使者とは別行動をとって四門助教という、現在の大学の助教のような人々に師事して教えを乞うていたようです。この四門助教というのは、中国で用いられた職業の位、九品官吏法によると従八品上という位に該当します。従って、若手官僚に色々と教えてもらうのが常であったようです。

しかし、阿倍仲麻呂は違いました。貴族の子供ですし、祖父に至っては正三位の家柄ですから、他のものよりは位が遥かに上であるということで、唐代の最高学府の官僚養成機関でもあった「太学(たいがく)」への入学を許可されました。今の北京大学、日本で言えば東京大学です。

でも、今のように何千人も学生がいたわけではありません。 唐の時代には、太学・国子学・四門学・律学・書学・算学が置かれ、六学とされていました。それぞれが何を教えていたかの詳細迄は調べられていないのですが、名前からなんとなく何を学んだか、また、学問の位置付けもわかるように思います。この六学卒業者に与えられたのが、科挙の最終試験であった省試の受験資格です。 この太学を卒業した阿倍仲麻呂は、科挙にも合格し、唐の官吏となるのです。721年のことですから、20歳になったばかりでした。

最初に就いた職は左春坊司経局校書という役職です。左春坊は建物名です。職務が校書、いわゆる書記官です。この職務の位階は正九品下。つまり、最下層職務からの出発でした。

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